芸術性理論研究室:
 
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構成素の集合間における関係性について

社会的位階秩序は古来より様々に批判され、多くの国家において投打され代換として民主主義を原理とした「自由」の体系を措定したと一般的にいわれる。果たして我々は自由が妥当する全抱括的社会を獲得したのだろうか。また、それは人類にとって運営可能かつ普遍的有効な概念装置といえるのだろうか。

理論至上的に考えれば、その起源は身体構造にあるといえるかもしれない。我々の身体構造は上部に脳や顔といった、その個体を代表する重要な要素を配置している。そのために「上」を価値あるものとして、「下」をなきものとして描くは必当然的と思うことができ、上位下位といった位階秩序は不可避の絶対的原理と思うことができる。また上位にあるものは下位にあるものを基礎付け制御・支配するものであり、上位なしに下位はないとすら思える。これらの帰趨は現行社会において当然のごとく見受けられ、絶対的に描かれ、またそれなりの有効性を発揮してもいる。しかし構造主義的な綜合的判断は永劫に有効なものなのであろうか。

ここで変えることを前提にして仮に我々が現在の身体構造とは上下関係を逆にしたものであったのならば、位階秩序は転倒するであろうとする推測は早計である。構造を作りかえようと機能的シフトがない限り、我々は「下」を『上』、「上」を『下』とするような新たなコードを配分し変わりのない無矛盾な行為を可能とするだろう。この対象と認知レベルの有機的対応関係性は認知科学が饒舌に物語ってくれている。哲学史的には、別の側面からではあるが「モリヌークス問題(*)」が良く知られている。

(*) ライプニッツ[1765]『人間知性新論』 米山 優訳 みすず書房1987 103頁以降。または中村雄二郎[1979]『共通感覚論』岩波現代文庫2000 殊に第二章。

ここではヒエラルヒーとはハイアラーキーを操作不可能とした乖離概念である。これは構造操作は倫理内容産出の原理とはなりえないことを意味し「法」と規範は本来的に共約不可能なものであることを示唆している。さらに教育の概念を根底から揺さぶるものでもある。

構造的位階秩序(ヒエラルヒー)とシステム的位階秩序(ハイアラーキー)を同一原理によって描写批判することは非本来的であり、誤読を招来する。ここで述べている構造的位階秩序とはベルタランフィーによって「構成的(*)」と描写されたものを意味している。それは構成する要素が機能によって区別された全体であり、全体を前提(**)とした部分によって構成される質料群である。これらの要素群にある関係性はすべて座標軸による数値によって位相化することができる。しかしその数字に価値は含まれない。数学のトリックを巧みに用いて、いかに要素自体の強度を外延化しようとも、そこに『当為』はない。

(*) フォン・ベルタランフィー[1968]『一般システム理論』 長野 敬・太田邦昌訳 みすず書房1973 50頁以降。
(**) ここでいう「前提」とは必ずしも『知』を含まない。文学趣味的なポランニー流の「暗黙知」というタームはミスリーディングであるので使用を避ける。システムによる『知』とは自己産出したもののみである。それは他者でも他我でもなく他者一般でしかない。

もしそこに「〜でなければならない」が含まれるというのならば、我々は荒廃した帝国や枯れ行く自然を描けないはずである。事実に当為が含まれるということは事象変化に伴い倫理も変化するということである。「〜でなければならない」といえるのはそれに反する可能性を共時的に描けなければならない。可能性自体を観察することは不可能であるがために、事実とは端的なものであり、可能性を含まない脱反省的なものである。もし事実が価値を司るのならば、それは価値ではなく事実判断の連続でしかない(*)

(*) 事実即規範的に生きることは最適合によって生き残ることができるが、意味を産出・把持できないためにそれは非自律的生となる。「生き残る」ことと「価値」とは本源的に類を異にしている。

我々が描きうる構造空間とは三次元を原理にしているがために必ず位階秩序は存在することになる。前提豊かな批評家が軽々しく「ヒエラルヒー」という言葉を用いる時、多くの場合、同語反復の批判を展開する。それは価値判断には遠く、事実判断にすらならない空虚なディスクールである。以下に多くの方々が通常区別しないハイアラーキーについてのより厳密な記述を行うことにする。

そもそも我々の心的現象域にヒエラルヒーなど存在しない。位階的な思考枠とはヒエラルヒー的なモードであって、ハイアラーキーとは構成素間の関係でしかない。厳密には、システム域における空間とは上下も左右もない『延長性なき空間』である。それ故に上位と下位の概念がさらに位階的関係概念によって浸透・結節されていると述べるべきであろう。それは単に概念の上下に別の概念が位置するような「階層構造」などでは決してない。観察によるニューラルネットワークと内観による理論機構は同じ地平上で語ることはできない。

我々は理解の遅延を回避するため図式を用いることがよくある。言葉よりイラストレーションのほうが効果的であることはありふれた経験である。しかしその場合の現前する「図式」と理解された『図式(シェーマ)』とは本来異なるものである(*)。通常、関係化の習慣化によって気付くことのない局面ではあるが、これが異ならなければ理解と行為の区別ができないことになる。それらの間隙は哲学史上最大のアポリアによって古来より架橋されている局面である。

(*) また音読と黙読における語の「読み」・「音」も同一のものではない。発話した「あ」と黙読の『あ』はまったく異なるものである。

ヒエラルヒーとハイアラーキーは相互自律的に発生し、自己を構成するものであり、それらは脱関係的、否、本質的に無関係なものである。ハイアラーキーの実的様相はピラミッド型の構造でも確定的なニッチが構成素になっているわけでもない。ハイアラーキーには要素も位階も存在などしないのである。もし要素がありうるとするなら、それらは相互浸透ではなく相互自己関係的なものであろう。他者記述と自己記述の内容が同一的に連動し、相互に同等の確定性を主張するようなトランス・パラドクス(*)である。

(*) パラドクスは無限に循環するからといってルーマン的にシステムの活動原理とはしない。たしかにオートノミーはパラドキシカルではあるが心的システムは同一素を無限産出するわけではないからである。だがクレタ人やゼノンの矢のごとく停止の可能性を用意可能な擬似的なものでもない。パラドクスは論理的に円環をなすが観察可能な時間を指向しない永遠である。円環という比喩がパラドクスとして妥当するのならば、ここでいうトランス・パラドクスとは螺旋に近いものである。しかしそれは高低を持たない座標なきスパイラルである。

ここで「重層的なリゾーム」という比喩を持ち出したいところだが、それも厳密とはいえない。形態をいかに不確定なものへ変更しようとも縮減性を認知の原理とするかぎり、必ずそれすら静的かつ確定的なものとして可能的に記述してしまうためである。(例えるならばマジックメモ的なコネクショニズムといえば近いのかもしれない。)

我々が通常記述しうる知識体としての構成素は素因などではなく、分子的な構成素の集合である。古来より「アトム」という議題が無限後退するばかりであるように、知識体はどこまでも微分することができ、決して原的な構成素へとは辿り着かないためである。また「構成素」ではシステムの自律性を自己言及的に把持可能であることを安易に謳いかねない。そのためここではそれを「構成素集」と呼ぶことにする。

ファーストオーダーは論理的段階として構成素を産出するといえるが、把握・記述の対象領域であるセカンドオーダー内に原子的構成素は存在しえない。構成素集は境界があるわけでもリゾーム的な不確定な境界をもつわけでもない。誤読を恐れることなく述べるなら、ゼリー状の皮膜のようなものに覆われているといえよう。ターナーがリミナリティーと、ヘーゲルが界域と論述してみせたように境界は思考停止を引き起こす確定的かつ静的な「線」ではなく動的な幅をもつ「領域」である。それは境界線などではなく「動的境界域(*)」と呼ぶべきであろう。なぜなら構成素集はなんらかの情報プールへとストックされる固定的なパッケージではないためである。それが道具的使用を受けるたびに同等性ある新たな構成素集が産出されている。

(*) ここで動的平衡と呼べるか否かは別の議題である。

システムは連続的文脈性を絶対的な前提としている。これは常に動いていなければ、それがそれとして成り立たないことを考えれば良い。プリコジンの散逸構造をもちだすまでもなく、ゼノンの矢で十分である。飛んでいる矢にとって構成素とはその瞬間の速度にあたる。しかし「その瞬間の速度」など我々は体感といった対象概念を得ることができない。それは十四世紀のニコル・オレーム以来慣習化された数字という形象を賦与する外延化の権謀によって、限局的な概念認識を行っているに過ぎず、一片の対象性なきものである。連続的に位相の変遷があるがために速度をもちうるものであろうと可能性として推測しているのである。これはシステムの文脈性を説明する比喩としてあてはまるものである。

対象性なき概念と文脈性との相克についてだが、それはアリストテレス的に今、思惟する『A』と以前に思惟する『A』は異なるものであることを考えれば良いことである。システム域における文脈とは反省可能であっても字義通りに遡源することなどできない。反省とは「以前の自己」を見るような反復行為ではなく新たに産出され、同等化された構成素集を見るといった初験である。構成素自体をもし字義通りに思索の俎上にのせるには、システムは死ななければならないということになる。文脈の上には文脈しかのせることができない。このキリスト教神学やデカルトが述べたような連続創造的な文脈性によってシステムは構成素や自我といった自体的認識を不可能としている。また同時に自我を把持できないがために我々は常に何らかの創造を絶対の義務としているのである。

構成素集を微分することも、構成素集どうしの関係を分化・批判することも論理的記述においては同義のシークエンスである。連続的に関係体である構成素集を産出することは常に新たな関係を産み出していることを意味する。つまり関係性を新たに産出・構成するということは常に新しいハイアラーキーを産み出しているということである。

ここで我々はハイアラーキーの再定義を行わなければならない。セカンドオーダー域に自体素が存在しえない以上、ハイアラーキーとは構成素の関係ではなく、『構成素の組織体による構成素集間の関係』、『関係性の関係』である。自体記述不可能が前提になっているため、ここでもまたルーマン的に「関係の関係」とはいえない点に留意しなければならない。この関係は単一的構造ではなく複合的なものである。相互に等質的単体ならば、その関係は二元論的単一といえるかもしれないが、無限の素因によって構成される構成素集どうしの関係であるのだから、それも無限的に複合化されることになる。

図A: 図B: 図C:
図A: 図B: 図C:

つまり無理に図式化するのならば図Aや図Bではなく、図Cのようなものになる。しかもその線数は有限でも無限でもなく蓋然的無限数(*)と呼ぶべきものであろう。これは原理的に『関係性の関係』は関係性に還元される無意味な概念であることを含意し、ハイアラーキーをめぐる考察は『関係性の総体』としてパラドクスやトートロジーといった書き出しへと再度帰着することになる。

(*) 例えば{A,B,C,D}と{A,X,Y,Z}という構成素集における相互関係は構成素Aを同一的同等関係としてカップリングするためその際の関係記述はさらに複雑なものになる。

 

**

我々は超克しがたい断裂によってその無効化への内部要請を不可避とする。その同等記述内にある同一性も一回性の連続による非同一内容であり、「同一性」は形式概念の範疇であることを知らされる。

偽民主主義によるヒエラルヒー・組織の欠点はそれが一点へと収斂するピラミッド型ではなく集束点を期待させるばかりの台形をなしている点であった。主体の顔が見えず民衆は鬱屈するか逃避するばかりである。たどっていった先にあるのは概念ばかりで誰にも逢着しない理由を知るべき時であろう。そしてすり抜ける術はここにある。

同一記述という関係化の内属機能的なモードがシステムの原的様相に反しているのならば、我々はヒエラルヒーを肯定することも否定することも、さらには非言及域へと追いやることもできるはずである。ハイアラーキーを同一体として記述することによって安易な厭世主義や無反省な権威主義・官僚制に身を投じる者は両者共に自己敗北なのである。

 

世界は意志の外にある、否、それは内にも外にもないものである。世界は変えられるものなどではない。絶え間なくエージェントらが遂行する社会的アプローチによる世界構成のように見える数々の趨勢は主体概念なき言表空間でのみ有効な不可侵の事実現象に過ぎない。

世界がどれほど移ろうとも『私』は変わることなくあり続けられると信じることができるように。

Metaforce Iconoclasm

-010-

2005