芸術性理論研究室:
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12.28.2007

あとがき

 

限られた時間を有意義にするために、私達は様々なコードを利用して自己の歴史を選択構成していきます。少しでも間違いなく、少しでも正しさへ近づくために、何らかの分野・認識論を採択し、自己にとっての必要/不必要を取捨選択していきます。これは誰かを選び、誰かを捨てると同義になります。すべてを経験できない私達は、たとえ一時出会っていたとしても、確証なく判断を下していかなければならないため、他者を傷付けることから、あるいは他者から傷付けられることから免れようのない存在性にあります。どんなによく考えた配慮も 『不完全なやさしさ』になり、普遍的な善意の表現は力の行使による空想の中で恭しく皮肉の相を浮かべます。

「傷付ける」は「悪いこと」で良いのかもしれません。しかし「傷付けられる」から生まれる非難は絶望という自己再構成によってのみ解消される必須の覚悟とすべきなのでしょう。

そしてその必要項も、やがてはいらなくなり、捨てる時がくると思います。過去のやさしさを裏切ることによって、自己豊穣を企てる技は誰にも咎められない当然の策です。達人と思えた者も、いつか褪色し敬意が薄らいでいく所以は、述べるまでもなく、誰もが今この一瞬を初めて生きているからにすぎません。マスターに完全性などないのです。捨てられた者は「成長」と呼ばれる可能性の余剰に気付けばよいだけですが、捨てる者は、ここでもうひとつの覚悟が必要になります。自己言及的な取捨コードによる選択でなければ、己の体だけが老いていくサディストになるだけです。発言や主張は、その内容に自己を含めて、初めて人的表現になります。捨象項に代換しうるアイディアを自己の可能域に認めるか、期待できない判断は単なる短慮な放縦でしかなく、現行社会となんら変わりのないゲマインシャフトを構成するような子供以上に幼稚な大人へと固着していくだけでしょう。卒業が対等の始まりを意味しないのならば、過去は生にならず、かつての否定項を自ら請け負い、再演するだけです。

 

相変わらずに自己は自己の面前へと押し出されないかもしれない。しかし、ほんの少しのトリックで、プログラムとシステムの補集合は操作可能になるかもしれない。愛する人を抱き寄せる時、射精出産を経験する時、ただ呼吸を繰り返すだけの時ですら、私達は自己を知的経験しているとするのならば、ささやかなパーミュテイション(バイアス)を加えるだけで、自己の相克は解消されるはずです。

 

今期は今まで以上にタブーをなぎ払いつつラディカリズムへ続いていく道を確保したつもりです。そこには真理ではなく学と自己への遍在があり、常に纏綿する不動の自己が潜在しています。それはアーティストを超えた私人へ向けての契機提供であり、素朴な人の生の称揚と賦活です。

 

2007.秋.SYLLABUS
2007年12月28日
ayanori [高岡 礼典]
 
12.28.2007

[2007.秋.POSTSCRIPT]

 
煌めきも、凍てつきも、
『自己』を充足などしてはくれない。
閨房での暗闇も、
浸透することなく混乱にまどろませる。

しかし、
煌めきや、凍てつきがなければ、
抱きしめる誰かの肌をなぞらなければ、
『自己』は『私』に背き続けるだろう。


何処に居ようと、何を行なおうと、
常に心がつきまとうのならば、
周界の全てを書机にしなければならない。


パルナソスの頂点から底辺へ垂直にむすんだ線分を、
そのまま向こう側へ押し倒す。

その終点をまやかしながらも、
ここには階層なき提供の遍在がある。


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全てを捧げ贈る。
私はその先を創っていこう。

 

2007年12月28日
ayanori [高岡 礼典]