芸術性理論研究室:
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12.15.2006

特殊について

 

当研究室において決定論の亜種は斥けるものであると考えているので、ここでの特殊とは生得性を一切欠いたものを指します。「生まれながらにしての才能」や「行為を先行決定する本能」などといった俗語に対応するタームはここにはありません。そのため特殊概念についての説明は古典的な定義から始まることになります。それは個物が偶然的に自己の定義項として帰属・附帯させた知や性格、獲得形質などを意味するものであり、必ずしも生涯的に有効ではないものを指します。艶のある肌や髪の毛、止めどなく血液が流れ出る傷口も、やがては皺が増え、やがては痕になります。個であることを説明する特殊内容は個であるが故ではなく、観察者がそれを個的対象として内挿的に同定する際に利用する批判材料として働きます。

そこでひとつ疑問があらわれます。それがもし任意の対象にしか宿らない特殊項だとするのならば、私達はいかにして個性的な対象を知ることができるのでしょうか。特殊・唯一性を字義どおりに解釈すれば、それは自己へと無限に回帰し続ける永劫のセルフ・レファレンス(没表現者)を意味します。他者へと代換帰属可能ならば、その個物だけが持っているものなどとはいえないでしょう。システム・心の特殊性とはいえても、構造の特殊性という言葉は形容矛盾になってしまいます。これは自他の区別ではなく『なぜ他者は私を知ることができるのか』という問いであり、回答へと繋がります。

中世西洋の思想家達は普遍概念の超越論性を説明し、神の譬喩に利用しました。しかし、そこにはそれ以上の含意があります。つまり特殊とは普遍の集合・列による意味論的な構成体であるということです。特殊内容の全体がいかに唯一の個性であるかのようにみえても、それを作り上げている部分・エレメントは誰もが持ちうる可能性であるために、私達は自己を飛び越えるように己を他者へと開示することに成功しているのです。決して他者自体を知ることができなくても、他者と向かい合う知を辛うじて期待できるのは、外延を単語化する言語文化によって事実上「無限」を禁止されているためだということです。被定義項である全体を微分してメタレベルを導出しても、あらわれるものは有意味な単語であり、また微分されるのですが、その終局には定義に被定義項が含まれてしまい、説明文はトートロジー化してしまうことでしょう。それが構造域で起きているために、私達は構造の普遍的な所有可能性によって、他者とループを形成し、一回的な相互作用をこえたコミュニケーション・関係の関係による社会的意味論を創造できているのです。特殊は普遍を質料因として利用して、普遍的に自己を指し示すように開口しています。

 

心の実様相によって自体的な作用・結節が不可能でも、言語記号が意味内容を黙視し続けても、その本質がどんなに独話以上の意味がないフェイクであったとしても、愛する誰かや憎む誰かと今日も会話を交わしたと『思える』理由は特殊の超越性によるものなのです。そしてそれは表現者がパワーシステムによる言語制作・操作を嘆くのはナンセンスであることをも示唆し続けています。

 

2006年12月15日
ayanori [高岡 礼典]
2006_秋_SYLLABUS