芸術性理論研究室:
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09.04.2005

哲学と思想の区別

 

可感的な情報体が蔓延する現代において不可視である「哲学・思想」といった言葉は神秘的で空想めいたものとして素人・大衆を雲にまく煙幕のように使用されています。「彼の作品には哲学がない」「彼は確かな哲学を顕在化している」「彼とは哲学が違うのだから〜」

安易に「哲学」という言葉を用いる方々の多くが初歩的確認すら期待できない外部者であることを説明する必要はないと思います。無知なる者が下愚なる者を罵倒する状況はよく出会うことでしょう。そういった方々の多くの所業は個人の自由価値を「哲学」といった歴史権威を用いて正当化する臆病の表れでしかありません。

哲学とは僭称・我執が許された「個人の価値」である思想とは意味を異にするものです。前者は学問の対象ですが、後者は他者を現前的にしろ一般的にしろ排除しているという点において、決して「学の領域」に含まれるものではありません。ここでいう学問とはアリストテレスのエピステーメから一歩も出ることなく使用していますが、「エピステーメ(他者へ教えることができるもの)」とは同一内容の伝達・交換を意味しているわけではありません。「同一」を普遍的に教授可能なら教える必要などないのです。そこで取り交される学知とは知的内容などではなく、なんらかの文法に則った確かな論理の相互確認になります。つまり論証可能/不可能のコードが哲学/思想を区別しているといえます。

しばしば哲学は唯一、演繹する必要のない学問であるといわれます。たしかに哲学は観察不可能なものを扱うため、実証し、それそのものを他者へと提示することができません。そのため科学思想へと流れていく学者が後を絶たないのですが、だからといってまったく何も提示していないことにはなりませんし、古典哲学の論法や論述内容が意義のないことにもなりません。

なぜならどのような哲学もなんらかのロジックを前提とし、論理のみがコミュニケーションにおいて普遍を維持するといえるためです。理解しがたい命題やディスクールもコミュニケーションという文脈によって推測(デコード)し、あきらかにすることが可能です。そしてその命題群が単一の原理によって結節することができない時、私達はそこに矛盾を発見し、他者との議論を可能にするのです。

しかし単なる価値判断は論及しようとも無限後退するばかりで決して単一の原理を導くことができません。そのため会話の契機を見出せず、議論も論証もできないものなのです。

世俗にあふれる「哲学・形而上学」などといった言葉の裏には寸毫の理論もない「思想」でしかなく、間違って学術書を一冊手に取ってしまったたぐいの方々による気の迷いでしかないということをここで確認しておきたいと思います。

真に学問や芸術へと身を投じる者の多くがその名を軽々しく口にしない理由は、それが自己の生涯を枠付けるターゲットである『生の動因』そのものだからなのです。

 

2005年9月4日
ayanori[高岡 礼典]