芸術性理論研究室:
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08.13.2007

鑑賞への偽法

 

初見の美術作品、殊に固定作品の前に立つ場合、私は2秒以上連続して立ち留まることがありません。ながくても5秒を超えることはありません。これは己の審美眼を自負しているのではなく、理解の深化とその入口を確保するためです。

ここでの理解とは観察ではなく、鑑賞を意味しています。どこかに「作家」が存在する芸術作品は自然の現象や産物とは異なり、そこに「全て」があるわけではないので、博物学的態度では『作品の理解』へなど至ることなく、単に工業製品(絵具)の並び方を見て終わってしまうことでしょう。作品の意味とは意図と素材の間にある非必然性を脱化する営み全体にあるといえるので、メッセージの読解、もしくは構図やスタイルの美しさの理解だけでは、美術でなければならない理由がありません。それらを相互に結びつける『愛』の概念操作ができない者は芸術に触れられないということです。

しかし、作家によって与えられるべきその『愛』は、多くの場合、作家(概念)の不在によって、コンセプト以上に隠蔽性が強く、読み取りが困難になっています。必然なきものに理由を見出すことは論理的に不可能なので、せめて作家の言葉を論拠にしたいところですが、それが禁じられている場合、私達はどのようにして美術作品を理解すればよいのでしょうか。ただ黙し、学芸員の言葉を鵜呑みにすることだけで満足しなければならないのでしょうか。おそらくそれでは勝手に作られた作家によって理解(制作)された作品を観ることになってしまい、実物との対面理由が見出せなくなってしまうはずです。それは音楽のオリジナルアルバムではなく、他者の手によってリミックスされたトリビュートを聴いて、一次作品を知ったかのように思い込むことと同じくらいナンセンスな鑑賞です。作家にとって作品が手段ならば、作品は作家の意志へと外挿する手段にはなりえません。一般に手描きの唯一性によって還元の可能性は信じられていますが、構造関係にそのようなものなどあるわけがなく、作品は作家への入口ではないことが分かります。それが作家との経路を閉ざしているにもかかわらず、それを鑑賞しなければならないため、美術表現はパラドクスとなり、安易な難解批判を受け、虐げられてきたのですが、ここで美術を理解するといわれる者達の一部がどのようにして愛好を超えているのか、ひとつの方法(偽法)を提示しておきたいと思います。

繰り返しますが、それが美術でなければならない理由は愛による跳躍場面にあります。これが『制作の最中にある創造的な感奮』であり、多くの美術家達が自己を肯定判断するために利用しているコードになります。この局面を知ってこそ、その作品の前に立つ醍醐味があります。上述した理由により、それを味わうには「作品から」ではなく、「作品へ向かう」態度をとらなければならないことをご理解いただけているのなら、冒頭で述べた「その場をすぐに離れてしまう」理由も予想できることと思います。これは別離ではなく「再会」を約束した一時的な別れを意味しています。述べるまでもなく、第一場面における一瞥は全体視野による大まかな斜め読みを意味しています。そして第二場面の別離の間に、第一場面で得たサマリーへと向かいうる制作原理を予見・創造し、第三場面での再会による確認段階で、作家が行なってきた跳躍を行なうことにより、単なる観察が鑑賞へと至ります。連続視ではなく、断続観察というプロセス(猶予)によって、作家と同じ道程を歩むことが擬似的に可能となり、私達は「美術鑑賞者」になれるのです。当然、作家自体と同一化できないので、この理解は「ノイズ」を含む近似値を超えられません。問題は第二場面での原理創造が個人的な能力などといった消極的な言葉へ無限に還元され、理論記述できないことなのですが、後行する私達が注目すべきは「ノイズ」を加えてしまう理解の実様相にあります。それこそが鑑賞を観察から区別する筆頭理由になります。

 

「ノイズ」はその鑑賞者固有の定義項であり、鑑賞者自身の作品です。そしてそれは他者との拮抗を生み、合意への道をも開くことでしょう。議論なくして相互理解への確認段階へなど到達できないということです。

私達は『自他』を捨てられないと同時に、『社会』から逃避することもできない生にあります。そのため、そのディレンマを超えるために必ずどこかで自分を騙す方法を確保していかなければなりません。「他者を知っているかのように思い込んでいる自己」を制作する鑑賞は、新しい自己と社会契機を生むテクニックのひとつです。

「再読」は最早「読者のひとり」ではありません。

 

2007年8月13日
ayanori [高岡 礼典]
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