芸術性理論研究室:
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08.05.2007

痕跡と指示

 

毎日のように、その前を歩いて通り過ぎる駐車場があります。そこは6台ほどの車をとめられるようです。たいていは1〜2台しか駐車されておらず、ちょっとした広場になっています。ある日も同じように通り過ぎようとして、ふとそこを覗き込むと、ボロボロになった買い物袋が落ちていました。またある日は、そのアスファルトの空間の中央にガチャポンのカプセルが一個だけポツンところがっていました。

その駐車場の利用者が不用意に捨てていくのでしょうか。それとも通行人が投げ捨てていくのでしょうか。その答えは“NO”になります。事情を知る私にとって、それは心ない光景などではなく、むしろ優しい気持ちにさせてくれる大切な風景です。今日は何が落ちているのかと楽しみにしながら─少し遠回りになっても─その前を通過して帰宅します。じつはこれと同じような出来事は、その帰宅場面においてもしばしば経験しています。玄関のドアを開けると、外出用の靴だけが並ぶべきその場に、ひととこに片付けておいた「買い物袋」や「容器のキャップ」、どこに仕舞っておいたのか忘れていたような「ドングリ」が落ちていたりします。

そんな時、私は「退屈してた?」といって、愛猫に「ただいま」の挨拶をします。駐車場や玄関口で起こる、あるべき場所ではないところにその物が落ちている事件は遊びたい盛りの子猫達や留守番を任され暇を持て余した家猫が、どこからか見つけてきたそれらと戯れた行為を指し示す痕跡であり、素敵な忘れ物なのです。何も知らない方には単に散らかっているように見えるであろう光景も、その風景を読み取るために必要な認識のパースペクティブを得ている者にはメトニミー(換喩)として現れ、出会います。

 

現構造は常にすべてを含まないために、私達はそれらを正しく「結果」として描写できません。原因論はその多くがありえない必然性によってつくられているためです。たとえば、通俗論では排除されがちな肌を歪ませる傷跡も、獲得者にとっては断ち切りたくない過去との紐帯かもしれません。猫の件に関しては「人間の目」を暫定的にも捨てられなければ正解へ辿り着くことは不可能なはずです。

しかし外挿の確実性が禁止された中で、ひとつ希望があるとするなら、それらをメタファーとして描写することは必ずしも妥当ではないという点です。たしかに傷跡は「刃物で皮膚を切り裂く最中」には含まれないかもしれません。それがどのような傷跡になるかは、「切り裂く最中」による原理では明文化できません。しかし「忘れ物」や無機物への傷跡ならば、前作用場面に含まれる「部分」として記述できます。その傷跡自体を過去の出来事の構成要素として数えることが可能なので、「そこから」始めても「そこへと」至る推理への期待を持つことができます。

 

分かりきっている私達が、それでも生に何か理由を求める時、その行き先を見失いがちになる所以は「目的」を「先」へと設定してしまうためです。有限性の理解に確定予見が含まれないことに気付いているのならば、目的は過去に置く、もしくは過去から表れると考えるべきです。そしてこの理解は鑑賞者と作品(作家)を結ぶ経路の確保へと導いてくれることでしょう。

次回より、鑑賞者育成に重きをおいたコラム(中間報告)を数本更新していきたいと思います。

 

2007年8月5日
ayanori [高岡 礼典]
2007.夏.SYLLABUS