芸術性理論研究室:
Current
06.15.2006

読み書きについて

 

ワープロが導入され当たり前のように日常使っている世代は、それ以前の紙とペンの世代の方々と比較すると圧倒的に文字(漢字)を『書く力』が劣ってきているのではないでしょうか。公的文書(手紙)を手書きで作成する機会もなく、仮にあったとしても決められた文章(サンプル)を再構成する程度の生活文化にある方々はそれなりに読む力があっても、いざ書こうと試みると初等教育レベルの漢字すら思い出せずにあたふたしてしまう経験が多々あることと思います。そしてその手記が他者へ見せる必要がないと覚えていない/思い出せないものは平仮名で済ましてしまい、さらに漢字が書けなくなってきていることだと思います。

なぜ読みと書きは往還的で可逆的な関係ではないのでしょうか。読めるなら書けそうに思えますが実際は異なるこのディレンマを知るには認知と認識の違いを知る必要があります。もしこの局面に区別がないのならば私達は「書けない」苦しみを経験することなどないでしょう。網膜上に写る映像のすべての要素と要素間の関係性に対して一対一対応的に認識が可能ならば見間違うことなどないことになってしまいます。私達は眼に写し見ているすべてを観ているわけではありません。愛しく想う人の声を雑踏の中から剔出して『聞き分ける』ことができるように、視覚情報も選択的に認識しています。それは認知域と不可逆的な関係で接続されているため倫理的とは言えないのですが、提示された項を全受容しているわけではない先行的な抽象であり非捨象的現象であるとまでは主張できると思います。そしてそのために私達は対象認識において面前した要素を密に把捉しなくとも『雰囲気』だけで一致を計ることができるのです。

人の『顔(レヴィナス)』を見分けるにも、誰が描いた「絵」なのか判断するにも、目鼻立ちや作品を構成しているエレメントを微視的に凝視・区別してから認識しているわけではなく、対象から滲出してくるかのような空想的な気配やスタイルを頼りにして私達は「ソレ」を『ソレ』として日常を送っています。しかしこの曖昧な認識の素材になっている『雰囲気や気配』は字義どおりに文学的・詩的なものではありません。それらは対象構造を単純化した際に表れる構成要素の相関図、つまり対象が初めから持っている『文脈』なのです。この単語脈とでも呼ぶべき文脈は必然的に複合的な構造なので、それを制度化された言葉で表現することなどできず私達は修辞的な記述に想いを委ねることになります。またそのため「曖昧」を超えることができず誤謬をおかしてみたりすることにもなります。

なぜなら形体を極端に抽象すれば、四角・三角・丸そして線・点となり、対象認識のカテゴリーはわずかな種類に収束してしまうためです。これが文脈ではなく数理的な関数で行っているのならば間違うことなく言い当てることができることでしょうが事実はそれに反しています。画学生がデッサンの初段階において精密な模写からではなく、クロッキーから始めるのは認識論的にも正当なやり方といえるでしょう。どんなに部分が当たっていても全体が外れていては不正解になってしまいます。

上述の説明は漢字の読みにも当てはまることです。難しい漢字を書けなくても、それを読めてしまうのは有意味な文字としてではなく、形に内属されている否定しがたい構造的な文脈の単離剔出に成功しているためです。そしてそれは巨視的な範疇内にあるもののため、微視的営為である「書く」とは同じものではないことになります。

文字を書くにはひとつずつエレメントを足していかなければならない制作的な知的行為になるので私達は「部分」を含むとは限らない「読み」ができたとしても書ける保証はないことになるのです。まさに行書や草書とはこの断裂を無効にするために設けられた苦肉の策といえるかもしれません。しかしそれも制約なき抽象が許される「読み」とは異なるので限度があることになります。

 

 

私達の生活空間は『制作者』を知らない論述なき暴力的な判断に満ちています。まるで「読めるから書ける」「観たから私も創れる」とでも言わんばかりに。それによって自身の不才を慰めたいのでしょうか。『個人』を排除して統合原理へとでも役立てたいのでしょうか。

不可視は可視を含みますが可視は不可視を含むとはいえません。観察と制作の区別が共通の了解として流布されなければ、いつか口火を切る者がいなくなり社会の系は停止してしまうことでしょう。

 

2006年6月15日
ayanori[高岡 礼典]
2006_春_SYLLABUS