芸術性理論研究室:
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06.11.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-1.07
ながい髪にふれられる
 

それをそっと撫でられる仕種の許容に、すべての力が抜け落ちていくかのような弛緩の被超越を感じます。ことさら羞恥の対象として制度的・文化的・暴力的な訓育が行なわれてきたわけではないにもかかわらず、「ながく伸ばした頭髪」は触覚環境において境界的に働きます。普段当然のように人目に晒されている「ながい髪」を、なぜ他者にふれられると侵犯的に描いてしまうのでしょうか。肌とは異なり、触覚神経がかよっていない髪もテコの原理的な法則に従って毛根へと激しく与件を伝えるので、時に無機質な表情をみせようと、拡大身体のひとつとしてならば認めることが可能です。しかし髪と同様に自己近辺に位置する爪や衣服といったそれを、他者にふれられても「ながい髪」ほどの嫌悪や親和は感じません。このコラムは以上の特殊内容を同感できる方々のために認識の道具として用意した形而上学になります。

通俗化された目的論前提の生物学的思想は、むかしから頭髪を頭部の保護として描くのですが、もしもそれが個体の全生活時間に関係なく身体防御として働いているとするのならば、頭髪は眉毛や陰毛のように、一定の長さを維持した後に、短期間で抜け落ち、生活に支障を来すほどの長さまで伸びないはずです。のびた前髪は視界を遮り、頬を覆い隠す髪は食事や愛撫の妨げとなり、うしろ髪は背後からの外敵にとって自由を奪い取る綱としてうつる事実は、自然選択ではなく文化的選択による何かが働いているかのように思えます。頭髪が「のびていく髪」であるという所以の説明は、どこまでも無限後退するので、思想の入り込む隙があります。

上述のように「ながい髪」をもつ者は非合理の枷を自ら強いています。それは行為規範の再構成のみを意味するだけではなく、多様な冗長性に従わざるをえなくなります。洗髪の際は「みじかい髪」に比べ、多くの洗髪剤を使い、多くの時間を要します。当然、乾燥にも時間がかかってしまい、「ながい髪」をもつ者は整髪だけで相当の努力と防衛を必要とします。就寝時の寝返りには、頭部と枕の間にあるうしろ髪が引っ張られ、進行方向とは逆の方向へむけて「ながい髪」を送り流す必要があります。また、性交の際「ながい髪」をもつ者が愛する相手の上へ覆い被さると、覆い被さられた相手に「ながい髪」による不快な干渉を与えてしまいます。それが不快でなかったとしても、相互に視野狭窄が起こりうり、性交場面に余計な隙が生まれてしまいます。

生活行動の中で「ながい髪」であることに利点などほとんどないに等しく、むしろ短く切り揃えたほうが、目的遂行の最短距離を歩めます。ではなぜ多くの文化圏で髪を伸ばす習慣があるのでしょうか。機能的観察をとおしてみると、それが長物であるにもかかわらず、大切なものとして無謬の価値を与えていることが分かります。つまり「ながい髪」をもつ者は弱点の存在から弱度の確保を行ない、規範の縮小と複雑性の拡大に成功しているのです。これを政治的な他者視点から悪用すればレギュレーターとなり、形而上学的に利用すれば自己の知的豊饒へと誘うドライバーになります。

 

2008年6月11日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008