芸術性理論研究室:
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02.19.2009
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-4.4
肌理の美
 

視覚伝達は触覚との統覚を前提としているにもかかわらず、画家やイラストレーターが描くグラフィックワーク/マティエールを忠実に立体化しても、美しい手触りになるとは限りません。逆に、触美を追求しても視覚判断が美を描き与えるとは限りません。視覚形態と触覚形態は、それぞれ独自のコードによって判断され、ひとつの美によって価値統合することは困難な技になります。“ form ”と“ texture ”の間には、解決しがたい相容れなさがあり、ここに味覚や臭覚が加わると、さらに問題はよじれていきます。日常を生きる私達は当然のごとく、カテゴリーが異なる種々の感覚与件を統合し、ひとつの対象を認識・判断しているかのようですが、実際的には中立的統覚など皆無に等しく、状況に応じてアド・ホックな感覚偏重の下に引きずられ、横倒しされています。

シャープネスは肌を切り裂き、柔肌の究極は体裁を奪い、単一的な制作感覚は美の普遍・兼備からかけ離れていきます。昼夜を問うことなく、一線を描く美の不在に想いをめぐらす時、私達は肌理の美の無理解に気付きます。そして、必ず「あかり」が灯らなければならない教育現場では、共同研究を行ない、それを教授し合うことも困難であることが分かります。そこで、このコラムでは「肌理の美とは何か」ではなく、「肌理の美」を感じ取っている際に、何が認識域に起きているのかの形而上学制作を行ないたいと思います。

まずは、任意の趣味に合う「手触り」を持つオブジェクトを用意して、肌理・テクスチャーを取得します。対象に触れ、表面の方向と平行に手の平を移動・摩擦していきます。この連続遷移による文脈構成によって、肌理内容は充足されていくわけなのですが、なぜこの場面に美の判断を働かせる必要があるのでしょうか。肌理の趣味は当然的に様々あり、「人肌」を好む人もいれば、「フラット」な表面加工を好む人もいます。「すべすべ」「つるつる」「ざらざら」「ごつごつ」と、いろいろなテクスチャーが選択されています。そのため、幼児期における乳房の感触をプロトタイプ・尺度とした経験論的自己保存の法則は、一概に謳えないように思えます。「自己保存」であることに変わりはないのかもしれませんが、相容れない好みの違いに出会うと、何か違和感を抱かざるをえません。状況や対象の用途等、二次的な条件設定によっても再構成されてしまう肌理の美のコードは、どのような自己を保存しているのでしょうか。

「着心地」について考えてみます。外出時の衣服、舞台や職場での衣装やユニフォーム、在宅・就寝時における部屋着や寝間着。それらはドライバーが志向する遂行度によって選択されるモード・シフトとして役立っています。それは身体機能・可能性の制限になるのですが、行為とは直接的に関係がなさそうな「着心地」までもが評価のコードへ組み込まれている点は、不可思議に思えます。「食感」はどうでしょうか。これも味覚には直接的ではないので、美を描き与える必要はなさそうなのですが、口腔の健康を保っていても、「さくさく」「ばりばり」といった硬質の食感を苦手とし、「もちもち」「ふわふわ」といった、やわらかさを好む人もいれば、その逆の人もいます。

肌理の美を観察視点から描くと、その複雑さから単純な自己保存ではないことが分かり、『自己直知』に限定されるように思えます。それは暗喩的・換喩的な対象判断において、有効性を示しているものの、判断者Aにとっては自虐・自己否定にしかならず、選択不可能な判断者Bのコードの存在によって、普遍的な演繹記述を斥け、個体の特殊を要求しています。

ここから、観察ではなく直知へ移行して、以下に、その直感を書き残しておきます。連続文脈を構成し、肌理を感じ取っている間ですら、触覚は含意性を捨ててはいません。強度やボリュームではなく、肌理のみに着目しても、それは充足原理のひとつとして働いています。「すべすべする」「ざらつく」は『私の肌より、すべすべする/ざらつく』を意味し、対象表面をなぞるという一行為によって、二つの肌理を知ることになります。表面遷移によって、それまでは無関係であった二つの肌理が同一線上に順列化されるのですが、「文脈方向」が真逆であるため、明確な一文ではなく、表現不可能な多層文になります。なぞられる対象表面は、なぞる手の平の後方へと移動していきます。同様に、対象を主とした場合「なぞり」とは逆の方向へ、手の平は後退していきます。肌理の取得とは「絶え間ないすれ違い」をひと綴りへ編纂する行為と形容できます。ここで、エアーコンディショナーで用いられている熱交換の技術が応用できるのならば、美術家達へ具体的なアイディア提供が可能になるのですが、ファンタジーは別の機会へ譲り、肌理の階梯確保だけ記します。

その「すれ違い」が「ぬくもり」を要求する前場面ならば、「ぬくもり」が「ながき抱擁」による平衡を容認する前場面ならば、肌理の美とは自己含意の度を相互寛容可能な脱自期待を意味します。フィジカルな生命システムが連続作動を前提にしたとしても、私達は動き続けることができません。それは、やがて訪れるかもしれない永なる逗留を前提に並べ、接触活動とは、いつか着地する(面)を探す営為として設定できます。それは未来へのささやかな予科を意味し、私達は次回の断続を可能にするようにも、生の制作を行なっていきます。

 

2009年2月19日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008