芸術性理論研究室:
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02.14.2008

血流知覚への憧憬

 

もしも身体内部・全身に張りめぐっている血管が、─大動脈から微細な毛細血管に至るまで─ 血液の流れを感じ取ることができたのならば、私達はそれほど自己に畏れることなく、ポジティブな社会妄想に泥酔したまま安楽死を迎えられるかもしれません。病に倒れ、身体の内部感覚が疼かされる時、悶絶へ堕しつつも、確か自己対象化の目眩の中で表れる自己を詛うは、無自覚の皮肉です。一人称を口走らせている自我は、感じ取れない自己に包まれながらも逆止弁を備えた経路で操作され、無色透明な相をみせていきます。それは決して見ることができないにもかかわらず、到達可能な範囲内でならば、触知にも似た延長性を垣間見せてくれます。そのため、アウェアネスの場面は、否定の反省を必要とするのですが、そうであるが故に ─不可逆と延長の矛盾拮抗によって─ 反意味論のスパイラルに捕われ、不動の不動を構成していきます。苦の通俗的理解は多くがこの反意味論にあるのですが、苦が苦の位置価から外された場合、私達はどのような認識論理を選び取るのでしょうか。

上述した血流知覚を想定します。指先からつま先、脳内を満たしいく血液の激流を常に知覚し、認識する者は、おそらく鏡を必要とすることなく自身の姿を塑像できるくらいの「即自把持」を生きていることでしょう。いま感じ取っているこの「流れ」は、身体のどの部分、どの血管を蠢く『流れ』であるのか徹底して同定できるのならば、交感神経を刺激することなく、身体図式は細密化し、部分部分の相互関係の関係化までをもシェーマとして構成可能になるので、自己を資料にすることで、解剖学を不必要にしたまま身体模型を作り、ビデオカメラの発明を待つことなく、身体運動のアニメーションを忠実に再現してくれるはずです。前景にある対象へ向かい、集中した作業を行っている間にも、頸動脈と鎖骨がつくる首筋の陰影や、背骨と肩甲骨がつくる背中の流線を観想し、日中の一般生活ではあまり俎上に載ってこない足全体の裏面、膝の裏や、ふくらはぎの様態を描いているので、衣服が邪魔になるほどの自己把持、否、アナフィラキシーショックを超えた自己確定を日常として過ごしていることでしょう。

心臓を動力的中心としつつも、途切れることなく連続して延長構造を形成し、その内側を隙間なく血液が満たし、流れいく蠢きは、神経系の自律性とは意味を異にします。仮に後者を自体的に知覚・認識できたとしても、部分/全体を有意味に概念図式化するには、困難な技になるので、無機的なデッサンになるはずです。神経系の部分知覚は、部分が全体を含むように与件を構成するので、関係の関係が描きにくく、パースペクティブが狂ってしまうことでしょう。しかし血流知覚の場合は、血液という連続者の関与によって、指先の蠢きがつま先を蠢かせ、唇の火照りが生殖器を火照らせ、狂いなきボリュームを確定記述してくれます。全てが繋がっていることによる全体理解は、擬似的な全体を不必要にして、相補的な部分理解を可能にし、かつ、自己を対象化するのです。

表面だけではなく、超視野的な内部までをも認識対象とする血流知覚者は、理解しているものが調子悪くなったにすぎないので、内科的な病も形成外科的な覚悟のもとに判断が可能となり、病によって改定される項目が少ないので、さほどの驚きもなく通院するでしょうし、自己を忘れることなく常に理解している状態にあるので、背後からの不意の悪戯にも、二重肯定程度の衝撃しか感じ取らないことが期待できます。

畏れとは現在形で不可知の域(未知)に従属せざるをえない何かが潜んでいると無根拠に思い込む恐怖の亜種です。近代までは自然災害の恐怖に畏れを感じ、神的な絶対概念を夢見てきましたが、技術によって多少は制御・回避できるようになった現代人は免れきれない残滓とて自己のみを手にしていることでしょう。(法)社会で生きる私達は反知や太平楽で逃避することができたとしても、一時的な猶予にしかならず、誰もが少なからず、自己という病におかされているはずです。

もしも人類が血流知覚レベルで、自己知へ至れるのならば、技術と認識の共働で、世界からあらゆる苦を抹消することが可能になるかもしれません。

 

このコラムに応用的な結文はありません。これを積極的なアイディアにするか、乗り越えるべき批判素材にするかは、野心と才能を兼ね備えたアーティスト達へ委ねます。

 

2008年2月14日
ayanori [高岡 礼典]
2008.冬.SYLLABUS