芸術性理論研究室:
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02.01.2006

パラダイムについて

 

甚深な学問営為によって産み出された成果は口当たりが良いものほど世俗へ落ちて行きます。そしてそれが術語使用における基本倫理の素養のない者の手にわたると、本来の意味よりは遥かに外延の狭いナンセンスなステータス語と化してしまいます。「パラダイム」もそのひとつです。多くの方々が『基本的な考え方』などといった概念の産出機構を司る第一原理的な意味でパラダイムという言葉を使用されていると思います。もともとの語意もそれ以上の特別なものではないのですが、前後に続く脈絡が何でも良いわけではありません。ここで教科書的な確認を行います。

パラダイムとはトーマス・クーンが「科学革命の構造(*)」で指摘した科学史の変遷過程において近接しつつも埋めようのない溝が開いていく絶対のディレンマを描く際に用いた言葉です。ニュートンとアインシュタインの理論は両者ともに私達の物理世界を描いている筈であるにもかかわらず、その間には相互に翻訳することができないといった越えられない壁があり、会話が成立しないといわれるお話が説明として良く用いられます。描く対象が同一のものであり、それによってカップリングされているとしても複数の理論間での直接のダイアローグを可能にするには自己を捨て相手側にならなければならないといった会話の本質である独話性を端的に指摘する際に根底にある理論を「パラダイム」という言葉で表現しました。つまり同じ言葉を用いたとしてもその背後にある、その言葉をそこで選択した原理(パラダイム)が異なれば相互の意味を理解することはできないといった素朴でありながらも革新的な局面を描くために術語されたのです。そしてこの対話不可能なシーンを「共約不可能性」と呼びます。

(*)トーマス・クーン[1962,1970](中山 茂訳)「科学革命の構造」みすず書房1971。

上述の説明では「独りの認識論」が抱え込む根本問題のように読めるかもしれませんが、厳密には集団の認識論の成立過程とその「認識論の存在論」の醜悪さを摘出した点に「パラダイム」の意義があります。クーンは科学理論の巨視的な変化の過程を観察することによって科学文化が堆積するように連続的に発展していくわけではなく、新たな理論が提示され一部の科学者集団に採択され制度化されることによって「飛躍する場面転回」があることを指摘したのです。集団への受容によってフィードバック的に認識論が固定化し擬似的な顕在化を相補的に企てる科学至上に対して、科学理論ですらイデオロギー的な暴力性を包含していると警笛を鳴らしたかったです。

これは通時的な問題になるので私達は日常生活であまり実感することがないかもしれませんがパラダイム・シフトにおけるディレンマは大きな時間の流れの中だけで起こるわけではありません。互いに現在選択している認識理論や社会的準拠枠・帰属枠としてのパラダイムを確認しあうことなく、ある科学者とある哲学者が出会った刹那に会話が成立するとは言えないでしょう。科学者集団の中へひとりの哲学者が投げ込まれた場合などは共約不可能性を脱するためにその哲学者は渋々暫定的にもパラダイム・シフトを受け入れなければなりません。システムと構造は連接も連動もない非同一地平上にあるので同一のディスクールが異なるシステム間において同等のメタレベルを持つとは主張できません。この生活空間において経験する「共時的なパラダイム・コンフリクト」は社会参加の際に誰もが克服しなければならない処世術となっていることは述べるまでもないことです。「集団の中にいる自己」と「個人として自己」を操作できなければ私達は他者へアプローチすることができなくなってしまいます。

 

歴史的と言われるような大きなパラダイム・シフトはイノベーションのように新しい職業を産むと同時に古い職業を破壊します。これは公的空間における現象になるので、何らかの政治的アイデアでリスクを克服することができるかもしれません。しかし共時的(Z軸的)なパラダイムの拮抗は私的空間でこそ起こりやすく、また思想の対立は相互に不動の真理を主張し、市場のような選択原理がなく、必ずしも仲裁の担体が介在する可能性がないので、往々にして有耶無耶となり憎悪を内に抱え込んでしまいます。そしてさり気ない「ひとこと」によってリアルに人を殺し、リアルに戦争を引き起こすトリガーとなるのです。

私達のコミュニケーション空間の脆弱性と暴力的残酷性を理解するスティグマとして「パラダイム」という言葉を保存するべきでしょう。

 

2006年2月1日
ayanori[高岡 礼典]