芸術性理論研究室:
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01.30.2008

弱さについて

 

全能ではない私達人類は、おそらく何度歴史をやり直しても、「役割」という概念から解放されることなどなく、教育制度がどんなに拡充しようと、個体発生へ智の系統発生を辿り着かせることなどできるわけもなく、自己は個人という単位理解に思い悩んでいくことでしょう。他者存在と他者一般は自己の行為を制御する指針としての制裁(者)となり、自己統一という概念を社会的に形式化して、変わることのない自己圧搾を課していくはずです。行動科学的にみれば、自己理解(認識)は社会的に要求される後行発生ということになりそうですが、当研究室HPのレポート等で展開している触覚の形而上学で主張しているように、自己知への構成は自体的に要求発生すると考えられるので、他者概念までいかなくとも、「他」さえつかめれば、没社会的であろうと自己は『私』を乗り越えていくべき生として覚悟していかなければなりません。

そして、この擬・必然的な生を充足していく営みは、必然的に自己に『弱さ・弱点』を表し、現させていきます。自己の選択構成は、リスク計算を緻密・周到に企てようと、論理的に非選択項や選択不可項を含意してしまうので、不完全性から免れようがありません。

茫然とうつろう者も、やがては可能性の拡張に目が眩み、やがては選び取る縮減に躍起になり、スタイルをつくり、「ひとり」になり、社会背景へと自己前景化の雫を落とし込んでいきます。初期の微動は鮮やかに魅了し、自己の無機化は社会の有機化に大きく貢献していくことでしょう。しかし社会は無常(情)に流転していくが故に、どんなにきらびやかに飾りたててみても、しだいに有効性を低減させられ、適応度に起伏が生じてきます。ある者は自己の再構成を余儀なくし、ある者は口火を捨て隷従に徹していきます。何かを選び取ったが故に選び取れなかったものを能えるようになるため、弱点を克服して、自己保存を継続させていきます。それでもその多くが前場面までの原理を包摂しない日和見的なパラダイムシフトでしかなく、自己の意味を紡がないので、過ちの繰り返しから始まり、他者として現れる過去の自己に足を引っ張られ、死角を突かれ、没成長的な歴史構成=礎にすらならない徒花の栽培に懸命になっていかざるをえなくなります。

ここで弱さ(弱点)とは把捉対象には含まれない捨象項を意味するので、語りえようがないように思えるかもしれません。それはどこまでも観察者の視点対峙によって初めて出来事化するので、先行的に対象化できないように思われる方も多いことでしょう。たしかに選択行為における含意性は、論理的な便宜を超えないので、知の構成ができたとしても、そこを突かなければ、弱点の理解・構造は現れません。

ながらく、社会学よりのシステム論は、この他者からの役割期待を自己を彫刻するサンクションとして描き、自己を束縛してきました。それは形而上学を捨てた描写態度をとる学術域にとっては当然のことなのですが、果たしてそれは個の内奥から『私』を生きる者・アーティストらにとって、どれだけ当てはまるものなのでしょうか。身体的特徴を必要とする分野ならともかく、少なくとも知的営為に属することで、選択不可能な項が個体別に異なるものなのでしょうか。弱点の多くは不可能ではなく、選択の未然体でしかないはずです。

自己の能力を大きく超える、もしくは乖離する他者と出会う時に不安を感じるのなら、それは訓育され、刷り込まれた狡猾な資本主義でしかありません。本来、弱点とは選択域の拡張、生存の延長を意味します。この可能性のストックは環境項を取り込む方向へ曖昧化するので、エクスタシスにも似た革新性を自己域に創発させます。しかしそれが不意に現れたエクスタシスであるがために、現在採択している認識原理の記述外に位置するものをパッケージングしてしまい、ハザード(恐怖)として立ち塞がることになるので、多くの者が臆病になってしまいます。ここで“ optimism ”ではなく、自己を選び取りつつ深化を目指すには専門的な態度を捨てた統合的な学際性が必要とされ、試されることになります。

ひきかえにした“ ウソ ”は、いつか必ず自己を脅かします。ささやかな気概でその弱点は確かに選び取ることができるプログラム・道具へと変異するのですが、それすらも拒否するというのなら、私達は自分にしか選べない選ばなかった可能性を常に選択可能項として保存する技術を用意しなくてはなりません。

それが可能だというのなら。

 

2008年1月30日
ayanori [高岡 礼典]
2008.冬.SYLLABUS